反論

Face with No Good Gesture

好きなものや気に入っているものについて否定された時に、そうじゃないだろと反論したい気になるのはわかる。しかし、往々にして反論のための論理で食ってかかることが多く、それでは溝を広げる結果にしかならない。溝を埋めることは難しいが、食ってかかってわざわざ溝を広げる必要もない。

反論のための論理で展開される記事でありがちなのは、否定された点についてすべて反論するような形のものだ。対象のトピックについて気に入ってはいてもパーフェクトであることはまずないので、それらのいくつかは自分が今までまったく気にしていなかった点や我慢していた点が必ず含まれるはずだ。そういった点に対しても反論しようとすると、反論のポイントがずれやすい。

そういった反論は埋めたい溝とは見当違いのところを埋めようとする作業に他ならない。そのため溝を埋めるどころか、周辺の味方に迷惑をかけることになる。

そのような記事は、最終的に反論することそのものが主眼に置かれた記事という印象になりやすい。そういう印象の記事は、たとえ書かれた反論のいくつかに見るべきところがあっても、読者が適切に消化することは難しくなる。下手をするとトピックについて好意的に考えていた読者を混乱させて、ネガティブな印象を与えてしまうことになる。

近頃は溝を埋めるのではなく溝を飛び越えてもらおうと、魅力的に演出するような形で記事が書かれることが多くなった。反論のための記事よりは形としてはまだ良いが、こちらは飛び越えてもらった後に幻滅される危険性があり、結果としてはもっと厳しいものになる。狙いとしては5人飛び越えてもらって2人残ればいいというようなものなのだろうけれども、見方を変えると3人の相容れない人々を作り出すことになる。


反論や誘導といった自分の都合に近いものを主眼に置いて記事を書くと、それに振り回される人々や振り回された人々の周囲にいる人々をただただ疲弊させる結果になる。と言うと近いだろうと思う。

とにかく何かを否定するのはすごく難しいので、よほどの事情が無い限りはしないことにしている。