ゲーム期じゃなかった。父親が死んだので色々やったりしてた。あぁ誕生日だ。ひどい言い方になるが70を超えた辺りでそろそろとか考えたことはあったような気はするけど、僕が40になる前に死ぬとも思ってなかったし、こう突然死ぬとは思ってなかった。

漠然とガンでしばらく闘病してから死ぬとか、痴呆症になって徘徊老人となって公共放送で探したりする羽目になって介護施設に入りそこで死ぬとかそういうことは考えていた。でも実際にはそういう形ではなく、よくわからない形で倒れ、そのまま意識を回復することなく死んでしまった。70を超えるまで特に大病をすることもなく普通に生きていたように見えたので、それなりに死が見え隠れするような状況になって、徐々に死ぬようなことは考えていたような気がする。老々介護とかそういうのだ。

思ったのは普通にあっさりと死ぬのはなかなか難しいのかなということだ。普通に生活している中で「死んだ、あっはい」みたいにはいかない。何か重い病気になった場合でも長い闘病生活(看病生活)の後に死ぬことになるだろうし、痴呆症になった場合はもっと色々あった末に死ぬ。どちらもあっさりからはほど遠い。倒れて死んだらあっさりだろと思う人は多いけど、時間的には確かに短いが、その密度はかなりのものだった。

倒れて病院に運ばれてからどうなるかまったくわからないままただひたすら待つ。父親の場合はかなりひどい状態でまず1日は持たないだろうという話だったが、場合によっては意識がないまま数日どころかもっとということもありうる。その間、何もできることはない。ただ奇跡が起こるか死ぬかを待つだけだ。

死んでもそれで終わりというわけではなかった。死因がはっきりと特定できない場合、遺体は検視に回される。そして警察署で検視の完了をひたすら待つことになった。1日はかからなかったが、ほぼ18時間ほど警察官から事件性のあるなしを確定するために質問されつつただ待った。そして死亡時の担当医の都合に合わせて、翌日死体検案書を受け取ってようやく死後の作業に入ることができた。

交通事故など犯罪性のある事故ではもっと大変なのだろうということを考えると、普通にあっさりと死ぬことは難しい。というかほとんど無理そうだ。


今思うのは平均寿命とか健康寿命とか徘徊老人とか老々介護とか特別養護老人ホームといった話題がただただ腹ただしい。もちろん八つ当たりなのだけど。70過ぎるまで大病もせずに生きていれば平均寿命を超えて生きるものだとまんまとミスリードされていたことが腹ただしいのか、それでも生きているだけ幸せなんじゃないかみたいな腹ただしさなのか。よくわからない。


実は人が死んだ瞬間というのに立ち会ったのは生まれてはじめてかもしれない。それまで眠っていたような感じだった父親が突然顔色が悪くなり始めた後、少し痙攣し、寝ているのとはまったく違う感じになった。その時はこの瞬間を忘れることはできないと思っていたけど、1か月も経たないうちにうまく思い出せなくなってきた。想像していた以上にショックは大きかったようだ。

こういうことも遺品を整理している中で、もう少し変わってくるのかもしれない。遺品整理の最大の壁は1冊辺り1000枚以上はあるスライド化されたネガ(白い厚紙とかに1枚ずつ挟まれたやつ)のファイルっぽい。50冊以上ある。本もものすごい数あるけれど、これはそのうち読もうと思っている。手始めに読んだことのなかった新共同訳聖書を読んでいる。ハードカバーですごい重い。

このすっきりしない感じもそのうち変わってくるのだろうか。たまに来る父親宛ての郵便物にまだ軽いショックを受けたりもする。