欧米小説の引用癖

彼は子供に、悲しみを意味するトリスタンの名を与えた。 — ローズマリー・サトクリフ 「トリスタンとイズ―」

海外の、特にイギリスやアメリカの小説をよく読む。もちろん日本語訳されたものだが。日本語訳の出来の悪さにがっかりすることはよくあるが、それでも面白いと思えるのは少し不思議だ。欧米(狭義のそれ)小説には日本の小説にはあまり見られない気に入らないところがあり、それが引用癖とでも言うしかないような、名著や聖書からの引用が冒頭どころか章ごと・節ごとに載っているところだ。

あれら引用は何のために載せているのだろうか。もちろんストーリーへの隠喩のようなものであったりすることはわかる。場合によってはそのストーリーに出てくる何かしらの、別な書物での言及を抜き出したものであったりすることもわかる。僕が知りたいのはなぜ、だ。

冒頭ならともかく、章や節の間に載せられている引用は読み進めることの邪魔でしかない。この引用にどういう意味があるのか、そもそもこの引用はどういう文章なのか、著者は誰なのか、聖書とすると前後はどうでどういう意味や教訓があるのか、など、いったん立ち止まらないと理解することはできない。特に引用元になじみがない(日本人なのでなおさらなじみがない)場合、理解の限度を超えていることもしばしばある。

ごくまれに章や節を読み終わった後に引用の意味がほぼ完全に理解できることはある。しかし多くの場合は理解できぬまま、もやもやしたまま小説を読み終えてしまう。

読み飛ばせばいいというのはその通りだが、ではそういった場合によっては小説そのものを害する可能性のあるものがなぜあるのかというところに戻ってしまう。ウェブログでよくある意味のあまりないアイキャッチ画像のように、欧米小説の様式美として、見ても読まずに流すしかないのだろうか。