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ウェブでの活動は入力と出力をどう表現するかみたいな感じに集約されることが多い。ウェブログやTwitter、GitHub、Forrstは出力の場、リンクログやDelicious、Readability、Pinterestは入力の場。FacebookやTumblrは両者を混ぜたカオスな場なのかな。ウェブログの記事(出力)をDelicious (入力の場)へそのまま渡すとか、Readabilityで読んだもの(入力)をそのままTwitter (出力の場)に流すとかちょっとやってみたけど違和感(と罪悪感)しか湧かなかったのでやめた。

僕は整理されている状態が好きで、「これはここ」みたいにぴったりと収まる感じのウェブサービスを探すことが多い。なので機能やコミュニティーなんかよりも特化型のそれにしか使えないものを好む傾向がある。別のとこでもちょっと書いちゃったけど、そういう特化型ウェブサービスを組み合わせて「自分のインターネット」みたいなレイヤーを作って、それを通してウェブを見たいのかもしれない。

FacebookやTumblrがあまり肌に合わないのは、既にそれらがレイヤーとして機能していて、自分の好む特化型のものと競合してしまうからなんだと思う。TumblrはともかくFacebookはそういうものなので、肌に合わないを通り越して嫌悪感を持つようにもなった。

こんな感じだとすごく偏る。一般的な方向には偏りにくいけど、自分の好みの方向に偏る。見たいものや見たいと思うものしか見なくなる。時間は有限なので効率という面ではそれで良い気もするし、不愉快な物事が多いウェブでは精神衛生上も良い。僕は評論家ではないので、先入観なく様々な物事を公平な視点で……みたいなのも必要なく、そういう点でもこの状態で良いのかなとは思う。

けれど変わりゆく物事を再評価する機会がなくなり、再評価することができなくなるのはまずいと感じる。もちろん年齢的な影響もあって頭が硬くなっているというのもあるけど、見たいと思うものしか見ないことの代償なんだと思う。HAMLCoffeeScriptEmmetとかは初期の段階で見たいものから除外されてしまったので、僕の目に魅力的に映ることはなく、再評価することなくきてしまった。つい最近だとMythがどうもしっくりときてなかったりして、良くない傾向だ。

物事を再評価するきっかけになるような、キュレーションやレーティングなどとは無縁で無作為なニュース・システムみたいなのが必要なのかな。無秩序で無機質な情報の奔流みたいなの。人的にしろ機械的にしろ誂えられた情報では没入のきっかけにはなっても再評価のきっかけにはならないような気がする。などとFacebookと様々なウェブサービスの連携を切りながら考えていた。