何もしないためのデザイン

豆腐がある。日本ならどこのスーパーでも売っている豆腐のことだ。そのパッケージは簡易で必要十分なものだ。大抵は箱状で、上部をビニールで密閉されている。豆腐のパッケージの箱はそこそこ丈夫で、食卓にそのまま出すこともできる。一人暮らしならばそれでも良いかもしれないが、やはり必要な分だけ切り分け、器に盛るだろう。

それはそうした方がおいしく感じることができるからだ。器に盛ろうと盛るまいと豆腐自体は変化しないので、その味が変わるというのもおかしな話なのだが、人はそれほど客観的で絶対的な感覚を持ってはいない。

ただし、豆腐をおいしく食べることが主で、器に盛ることは主ではない。ここを間違えるとおかしなことになる。だから「器がきれい!」ではダメだし、また「器に盛られた豆腐がきれい!」でも微妙だ。ただただその豆腐をおいしく食べられるように、できるだけそれ以上何もしないように盛り付けるとよいだろう。

そのような盛り付けは何もしないためのデザインと言える。


何の話かというと、僕はウェブデザイナーなのでウェブページでのフォント指定の話だ。

ブラウザーの内部的なデフォルトのフォント設定は、最小の労力で文章を最低限読めるようにするものというと近い。現にWindows XPがサポート外になるまで、メイリオが使われることはなかった。またいまだにそのデフォルトとしてTimes New RomanとArialが広く使われている辺りにももっと疑問を持つべきだ。

それでもメイリオになったわけだし、今は違うと思うかもしれない。それはさすがに知識不足だ。完全に無指定だとアルファベットがTimes New Romanで日本語がMS Pゴシックになるものもある。

ArialとSimSun、メイリオで「I am 猫である。」

ユーザーがフォント設定をするか、そういったデフォルトを良しとするべきだという考え方もあり、それは考え方としては正しい。しかしデフォルトは良くできているようでそれほどでもなく、ずっこけるような挙動をすることもよくあり、現実的な考え方ではない。なんとなくメイリオなのだが、なぜか多くの漢字がSimSunになるというものも少なくないのだ。

MS Pゴシックで「I am 猫である。」

ならば多くのユーザーにせめてメイリオを……とウェブデザイナーが考えるのも無理はない。ではメイリオ以外を好んで指定しているユーザーのことを考慮して、汎用ファミリーのsans-serifだけ指定したとしよう。すると今度はなぜかユーザー設定が反映されなくなり、デフォルトが反映されてしまうものが出てきたりする。


このように豆腐のパッケージは他人が席に着く食卓に出せるようなものではまったくないのだ。

フォントを指定するということは、豆腐をパッケージから出し、適当な器に盛ることに過ぎない。同時に器に盛ることを主にするような愚行をしないためには、できうる限り豆腐であるところの文章をきちんと読めるようにだけフォントは指定されるべきだろう。

つまり本来は何もしないために指定する、デザインするものなのだ。ニュートラルに戻すというと近い。

そこを勘違いして何かしらの強い意図をもってフォントを指定してしまうと、その意図が読みやすさを阻害する結果になりやすい。残念ながらそういったおかしなことになってしまっているウェブページも多い。それならいっそ……というのもわからなくはないが、それでもやはりコンテンツを考慮してニュートラルに戻すようにフォントを指定するべきだ。そうしないとウェブページの文章がきちんと読めない環境が放置されることになり、そのことは公平とは言えないからだ。


少し前からこのウェブサイトでは何もしないためにシステム・フォントへ寄せてみている。どこまで寄せるかがとても難しい。決定的な結論が出せた暁には、なぜシステム・フォントなのかも含め、改めて記事にしたい。その記事では何をもってニュートラルとするかもしっかりと書けるはずだ。