内容に曖昧なところの少ない公式文書や仕様書、あるいはWikipediaの項目などのみをリンクで参照する形でウェブログの記事が書かれることが多くなった。孫引きや孫々引きのような記事は減り、全体的な記事の質は比べ物にならないくらい上がった。その一方でゆるやかな繋がりは死に、それに伴うゆるやかな出会いは消滅した。

このあたりのことはもう取り返しがつかないであろうし、今こそTrackBackのような何かが……などといっても混乱させるだけだろう。そういう世界になったというだけの話だ。

今の世界では記事は記事で独立した存在であり、その前後の記事はおろか書いた人のことにまで思い及ぶことはほぼない。あったとしてもそれは否定的な動機によるものだろう。そういった独立した記事達はもはやウェブログのような形態には収まることは無意味で、効率良く横断的に情報のみを得られるようなStack OverflowやQiitaへ、あるいは完全に隔離された匿名ダイアリーやpplogへ、と廃棄されていく。

廃棄というのは多分に過去の幻想、TrackBackが理想通りに機能する世界を夢見ていたことによる悪意ある表現ではあるが、気軽に書き捨てるというような意味だ。記事自体には大きな変化は起きないので、情報量という観点では変化は見えてこない。しかし、記事と記事の繋がりやそれに伴う出会いのような観点で捉えると大きく変わった。

フォローしている人やタグといった無機質な単位でしか記事と出会うことはなくなっている。そしてその記事はほぼどん詰まりで、これまた無機質な公式文書や仕様書、そしてWikipediaの項目へとしか行き着くことはない。そこには新たな情報はあっても、出会いはない。

むしろそういった出会いのようなものがTwitterやLINEといったものに取って代わったことによる必然的な変化なのかもしれない。


技術系に限らずAdvent Calendarが個々のウェブログ(やウェブサイト)で書かれなくなったな、と今年は強く感じた。続けてこのようなことを考えていた。

個々のウェブログに書かれていた時は、普段良く読んでいる人がとあるAdvent Calendarに参加すると記事になる。そのため「こういうAdvent Calendarがあったのか」という発見があり、それに参加している他の人々という出会いがあった。いくつかは期待外れであったりもしたが、うちいくつかはとても興味深い出会いだったように思う。

今はどのようなAdvent Calendarがあるかの発見は、QiitaやAdventarの一覧を見る以外にまったくないだろう。具体的な何か、例えばCSSやらBEMやらをもってAdvent Calendarを探すというのなら集約されている現状は効率が良い。でも無作為で意外な出会いもあって欲しいと考えるのは強欲なのだろうか。